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zoom RSS よみがえれ!シーボルトの日本博物館

<<   作成日時 : 2017/06/11 10:24   >>

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4月22日〜6月11日まで、名古屋市博物館で
「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」  が、開かれていました。
あと1日だけとなった昨日、意を決して?見に行ってきました。

HPより抜粋です。

「19世紀、アジアの最果ての国「ニッポン」に憧れ、オランダ商館の医師として
やって来たドイツ人、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト。
二度の来日で熱心に博物学的な収集を行い、日本の自然や生活文化を
中心とした膨大な物品を持ち帰りました。

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彼は、これらを駆使して、ヨーロッパに日本を紹介するための展覧会をたびたび
開きましたが、それは万国博覧会やジャポニズムの流行の先駆けとなる活動でした。

この「日本博物館」の実現に生涯をかけた彼の没後150年を記念し、厳選した
約300点の品々が今回ドイツから里帰りしました。シーボルトが魅せられ、また
ヨーロッパの人々に見せようとした「ニッポン」の姿にせまります。」

シーボルトは医師(軍医)でしたが、植物に大変興味を持っていて、長崎の出島で
日本のいろいろな植物を栽培していました。このことについては、小説
「先生のお庭番」を読むと、出島での日々の生活の様子が詳しく書かれています。
著者 朝井まかて  (徳間文庫)

私は、この本を2〜3年前に読みましたが、その頃からシーボルトについて
もっと詳しく知りたいと思っていました。
さらに、シーボルトの日本での医師としての駐在生活を詳しく著している小説があります。

「ふぉん・しいほるとの娘」上・下   吉村 昭著  (新潮文庫)

(上)では、幕末の長崎での最新の医学を教えたシーボルト。
しかし、軍医として鎖国のベールに閉ざされた日本の国情を探ることを
オランダ政府から命じられていた。
シーボルトは、遊女其扇(そのおおぎ)を見初め、娘のお稲が生まれるが、その直後、
日本地図の国外持ち出しなどの策謀が幕府の知るところとなり、国外追放された。

(下)では、お稲がシーボルトを慕って、医学の道を志し、産科医となる・・・
(本のカバーより抜粋)

数ヶ月前に読んだこの小説が、強く心に残っていた矢先のシーボルト展が
名古屋で開かれ、ラッキーでした。

お滝(其扇)

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娘 稲 (なかなかの美人だと思いますが、いかがですか?)

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館内には、江戸時代の日本の工芸品がたくさん展示されていました。
とても緻密な細工物もたくさんあり、当時の船で、南シナ海からインド洋、そして
喜望峰を回り大西洋からオランダまで、よくこの状態で運んでいけたものだと
感動しました。

日本の者を強奪?とも言えなくもないと思いもするのですが、
長崎にそのまま置いてあったら、戦時中の爆撃や、原爆で
破壊されていたかも知れません。

また鎖国中の日本でしたから、地図を持ち出されたことが国外追放の
おおきな原因だったのですが、シーボルトに協力する者も何人かいたので、
その人たちは獄門に処せられたり・・・
これがシーボルト事件と言われた理由です。

以下、HPより引用

シーボルトは、最新の西洋医学を学びに集まった日本人医師や蘭学者、
オランダ語通訳らの協力で、日本に関する膨大な情報や資料をヨーロッパに持ち帰ることに
成功します。そして、その研究成果は、ヨーロッパで出版され、「日本植物誌」、
「日本動物誌」「日本」などにまとめられました。

弟子たちと語り合った家 (医学の勉強をした鳴滝の家屋模型)

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オランダ帰国後、オランダやドイツ各都市で、コレクションの展示をしました。
花鳥図衝立  (写真はパンフレットより)

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魚形蓋物(鰹)  実物の大きい鰹の大きさの物が造られていました。
片身がはずせる宴会用盛りつけ皿(半身を持ち上げると、中が皿のようになっています。)

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鉄線蒔絵 燈籠形弁当箱  高さが1m幅1mぐらいあります。(目測ですが)

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石橋文法被 (長崎くんち衣装)

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色絵白菊形食籠

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中略

1823年、27才の若さで長崎の地に立ったシーボルトは日本文化を多面的に紹介することに
成功しました。
研究の完成を目指して、3度目の訪日は見果てぬ夢に終わりました。
しかし、彼の死後、ミュンヘン五大博物館の中核展示として、やがて実を結ぶことになりました。

私が最も気に入ったのは、動物の人形です。 (毛植人形)
絹糸や羽毛を用いて、動物の毛並みを表現した、非常に小さくて
愛らしい人形たち。  約8cm程度でした。
(この写真は、HPよりコピーさせていただきました。)

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シーボルトの1回目の帰国後、再来日しに同行したヨーロッパ生まれの
長男アレクサンダー

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アレクサンダーは、後に通訳として日本のために活躍しました。

名古屋市では、シーボルトに西洋の植物学の研究を学んだ伊藤圭介がおり、
東山動植物園でも連携展示されていたそうです。(6月4日で終了)

ミュンヘンの五大陸博物館へいって、さらに多くの展示物を見てみたくなりました。
この後、名古屋市の久屋大通の南端にある、フラリエへ足を伸ばし
初夏の花を見てきました。(後日、アップしたいと思います)
長い記事を最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは!
シーボルトが日本から持ち出した物300点が里帰りした展示会なんですね。貴重なものをご覧になれましたね。
eko
2017/06/11 17:22
ekoさん、こんばんは。
早速コメントをいただき、ありがとうございました。
日本の品々だけでなく、シーボルトがお滝さんに当てた手紙などもたくさん展示されていました。
最終日の前日に行けたことはラッキーでした。
それにしても、随分多くの物をオランダへ運んでいたことが、信じられないぐらいです。
オランダ商館では1年おきに職員の入れ替わりがあったので、そのときに少しずつ運んでいたのでしょうが、集めるのにも大きい物など、どうやって揃えたのか?
小説には、日本地図のことは詳しく書かれていたので分かりますが、貴重な品々のことはあまり書かれていませんでした。
りりい
2017/06/12 21:35
シーボルトの本当の顔は何だったのか、謎も多いですね。
もう46年も前ですが、テレビの連続ドラマで「おらんだおいね」というのがありました。
主演は丘みつ子で、母がいつも見ていた記憶があります。
そういえばミュンヘンに住む妹の住所は、シーボルト通り(ドイツ語読みではジーボルト)です。
彼はミュンヘンで亡くなったそうなので、何か関連があるのかも知れませんね。

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」は、地元の国立歴史民族博物館でも何カ月か前に開催していたのでした。
なんで行かなかったのだろう、すごく後悔しています。
カンツォーネ
2017/06/12 21:57
こんばんは。
シーボルトは娘の稲さんが生まれたことは知って居るのでしょうか。稲さんと息子のアレクサンダーとは交流があったのかしらと気になりますよ。
博物館では珍しい当時のいろいろなものを見ることが出来てよかったですね。衝立やお弁当箱、菊型食籠など今でも見事なものだと思います。
のろばあさん
2017/06/12 22:07
シーボルト、単なる医者かと思いましたが
日本を良く知ってヨーロッパに日本を紹介したり凄い功績をもった人なんですね。
初めて知りました。
植物にも興味をもって出島に草花を植えたりしてその頃を考えると先に進んでいた人なんですね。
驚きました。
信徳
2017/06/13 08:27
おはようございます。
私はシーボルト事件と、この方がお医者様ということだけ知っていました。
植物にも長けておられたんですね。
りりいさん、思い切って行かれ良かったですね。
3度目の来日が出来ず、さぞ残念だったことでしょう。日本を深く愛しておられたこと、よく分かります。
お滝さんも稲さんも、なかなか美しい方ですね♪
ハーモニー
2017/06/13 10:30
カンツォーネさん、こんばんは。
ドイツ在住の妹さんが、なんとミュンヘンのシーボルト通りにお住まいとは、また偶然ですね。
シーボルトはドイツ人ですが、オランダ人として長崎へ来たので、日本の通訳士は、オランダ語の発音が変だと気がついていたそうです。それで、オランダは、ほとんどが低地だが、自分はオランダでも高地(山岳部)の生まれなので、発音が少し違うと言い訳をしていたそうです。当時の長崎の通詞も、それを聞き分けていてすごいなと感心しました。
美術館や博物館の展示で、見たくても見に行くチャンスがない時ってありますね。私も今回は最後の1日前で行けましたが、ほとんどあきらめていました。
りりい
2017/06/13 22:18
のろさん、こんばんは。
シーボルトは、むすめの稲が生まれたことは知っていて、2度目の来日の際、長崎で会っています。稲宛てに手紙を書いていて、それも展示されていました。きれいな筆記体でした。稲もオランダ語を通詞や蘭学者に少しは学んでします。
博物館で展示されていた品々、それは日本でもかなり高級な家具や漆器や器の部類に入る物ばかりでした。
螺鈿などの技術も素晴らしかったです。
りりい
2017/06/13 22:30
信徳さん、こんばんは。
私も、学校で学んだ知識では「医師」という姿だけでしたが、博物学的にすごい知識と日本に対する関心の高さには敬意を表したいぐらいです。
当時の蘭学者や医者は、こぞって長崎へ向かい、医術を学び、シーボルトのために命をかけても惜しくないという協力をした生き方をしています。それだけのオーラの持ち主だったんだと思います。
りりい
2017/06/13 22:34
ハーモニーさん、こんばんは。
シーボルトは2度目の来日でアレクサンダーを連れてきています。親子で横浜にいたとき、アレクサンダーは16才で残され、日本語の通訳としてイギリス公使館で雇われていました。息子を残してシーボルトはバタビヤ(インドネシア)へ行くよう命令を受け、親子の別れをしました。
ちょうど、江戸時代末期になり、外国船は入ってくる、生麦事件が起きるなど混乱の世になりましたので、あすはどうなるか分からない毎日を過ごしていたのですね。
りりい
2017/06/13 22:40

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